西田幾多郎『善の研究』序文・抜粋

原文 (序文より)

純粋経験じゅんすい けいけんを唯一ゆいいつの実在じつざいとして、すべてを説明せつめいして見みたいと云いふのは、余よが大分だいぶ前まえから有もって居をる考かんがへである。始はじめはマッハまっはなどを読よんで見みたが、余よの考かんがへと違ちがって居をるので、遂つひに断念だんねんした。個人こじんあって経験けいけんあるにあらず、経験けいけんあって個人こじんあるのである、個人的こじんてき区別くべつより経験けいけんが根本的こんぽんてきであるという考かんがへから、独我論どくがろんを脱だっすることが出来でき、また経験けいけんを能動的のうどうてきと考かんがへることに由よってフィヒテふぃひて以後いごの超越哲学ちょうえつ てつがくとも調和ちょうわし得うるに至いたった。

原文 (本論「純粋経験」冒頭より)

経験けいけんするというのは事実其儘じじつ そのままに知しるの意いである。全まったく自己じこの細工さいくを棄すてて、事実じじつに従したがうて知しるのである。純粋じゅんすいというのは、普通ふつうに経験けいけんといって居をる者ものも其実そのじつは何等なんらかの思想しそうを交まじえて居をるから、毫すこしも思慮分別しりょ ふんべつを加くはえない、真しんに経験其儘けいけん そのままの状態じょうたいをいうのである。

解説:純粋経験

西田の「純粋経験」は、主観と客観に分かれる以前の、直接の経験のことである。

私たちが普通「経験」というとき、すでに「私が何かを経験している」という主客の分離が前提になっている。しかし西田は、その分離以前にこそ「真の経験」があると考えた。

たとえば、美しい音楽を聞いて陶然としている瞬間、「私が音楽を聞いている」という分離はなく、ただ「音楽がある」「音楽そのもの」しかない。この瞬間が、西田のいう「純粋経験」である。

西洋哲学との対比

デカルト以来の西洋哲学は、「われ思う、ゆえにわれあり」 (Cogito, ergo sum) を出発点にしてきた。これは「思う私」(主観) と「思われる対象」(客観) の二元的分離を前提にする。

西田は、この二元論を解体しようとした。「経験する自己」がまず存在するのではなく、まず「経験」があり、そこから「自己」が事後的に立ち上がる — というのが彼の主張である。

近代日本における意義

1911 年、明治の終わりに発表された『善の研究』は、日本人による初の本格的な独自哲学の試みとして、深い衝撃を与えた。

明治日本は、西洋の哲学・科学・制度を急速に輸入し、「翻訳の時代」を生きた。その終わりに、輸入を超えて、日本人自身の言葉で世界を考える — それを西田は最初に成し遂げた。

京都帝国大学を拠点とする「京都学派」は、西田を祖とする日本独自の哲学運動として、戦中・戦後に多大な影響を及ぼした (一部、戦時思想との関わりで批判もある)。