西 郷 隆 盛『南 洲 翁 遺 訓』 ─ 命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人 の表紙イラスト

西 郷 隆 盛『南 洲 翁 遺 訓』 ─ 命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人

中学校 道徳 第1学年 古典 幕 末 思 想西 郷 隆 盛明 治 維 新近 代 日 本 の 精 神 目安 25 分

作者
西郷隆盛 (さいごう たかもり) / 編 庄内藩士(西 郷: 1828–1877)
原作発表
1890 年(幕末・明治初期 (1860年代~1877))
出典
庄内藩士編『南洲翁遺訓』 (1890) / 試訳・解説 (本サイト編集部)
底本:1890 年 (明 治 23 年)、 旧 庄 内 藩 士 が 編 纂・出 版 し た『南 洲 翁 遺 訓』。 西 郷 隆 盛 (1828-1877) が 戊 辰 戦 争 後、 敵 で あ っ た 庄 内 藩 (現 山 形 県) を 寛 大 に 処 遇 し た 縁 か ら、 庄 内 藩 士 数 名 が 西 郷 を 訪 ね て 教 え を 聞 き、 そ の メ モ を 西 郷 没 後 に 41 か 条 と し て ま と め た。 「命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人 は、 始 末 に 困 る も の な り」 の 第 30 条 が 最 も 有 名。

学習のめあて

  • 西 郷 隆 盛 の 思 想 と『南 洲 翁 遺 訓』 を 理 解 す る
  • 「命 も い ら ず…」 の 一 句 の 意 味 を 自 分 の 言 葉 で 述 べ ら れ る よ う に な る
  • 幕 末 か ら 明 治 へ の 思 想 史 的 系 譜 を 知 る

本文

南 洲 翁 遺 訓 ─ 西 郷 隆 盛 の 教 え

1. 1869 年、 鹿 児 島 へ の 旅

1869 年 (明 治 2 年)、 戊 辰 戦 争 が 終 わ っ た 翌 年 の 春。 山 形 県 鶴 岡 か ら、 旧 庄 内 藩 士 数 名 が 鹿 児 島 へ の 長 い 旅 に 出 た。

目 的 は 一 つ ─ 戊 辰 戦 争 で 自 ら が 敵 と し て 戦 っ た 男、 西 郷 隆 盛 (当 時 41 歳) に 直 接 会 い、 教 え を 聞 く こ と で あ っ た。


2. 「敵 が 弟 子 と な る」 と い う 逆 説

な ぜ 庄 内 藩 士 が、 か つ て の 敵 で あ る 西 郷 に 教 え を 求 め に 行 っ た の か。

1868 年 9 月、 庄 内 藩 は 奥 羽 越 列 藩 同 盟 の 一 員 と し て 新 政 府 軍 と 戦 い、 つ い に 降 伏 し た。 当 時 の 常 識 で は、 「敵 藩 は 領 地 没 収、 武 士 は 切 腹 か 流 罪」 が 当 然 で あ っ た。

し か し、 西 郷 は こ う 言 っ た。

「庄 内 藩 士 は、 立 派 な 武 士 と し て 戦 っ た。 敵 と し て 立 派 な 振 る 舞 い を し た 者 を、 私 ど も は 罰 す る こ と は で き な い。 領 地 は そ の ま ま、 武 士 の 名 誉 も そ の ま ま で あ る」

こ の 寛 大 な 処 遇 に、 庄 内 藩 士 は 衝 撃 を 受 け た。 「我 々 は 敵 と し て 戦 っ た。 そ れ で も 西 郷 翁 は 我 々 を 武 士 と し て 認 め た」。

そ こ で、 数 名 の 庄 内 藩 士 が「教 え を 聞 き た い」 と 鹿 児 島 を 訪 ね 始 め た の で あ る。


3. 西 郷 の 教 え ─ 41 か 条

庄 内 藩 士 は、 鹿 児 島 で、 そ し て そ の 後 西 郷 が 上 京 し た 際 に 東 京 で、 西 郷 に 会 っ て は 教 え を 聞 き、 そ れ を メ モ に 残 し た。

そ し て 1877 年 9 月、 西 南 戦 争 で 西 郷 が 城 山 で 自 刃。 そ の 13 年 後、 1890 年 (明 治 23 年)、 旧 庄 内 藩 士 (赤 沢 経 言・三 矢 藤 太 郎 等) が、 そ れ ら の メ モ を 整 理 し て 41 か 条 と し て 編 纂・出 版 し た。

『南 洲 翁 遺 訓 (な ん し ゅ う お う い く ん)』 で あ る。


4. 第 30 条 ─ 最 も 有 名 な 一 句

『南 洲 翁 遺 訓』 41 か 条 の 中 で 最 も 有 名 な の が、 第 30 条 で あ る。

「命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人 は、 始 末 に 困 る も の な り。 然 (し か) し 斯 (か) か る 人 で な け れ ば、 艱 難 (か ん な ん) を 共 に し て 国 家 の 大 業 は 成 し 得 ら れ ぬ な り」

現 代 語 訳:「命 ・ 名 誉 ・ 地 位 ・ 金 銭 ─ ど れ も 欲 し が ら ぬ 人 は、 一 般 に は 扱 い に 困 る 人 で あ る。 し か し、 そ う い う 人 で な け れ ば、 困 難 を 共 に し て 国 の 大 仕 事 は 成 し 遂 げ ら れ な い」

こ の 一 句 が、 西 郷 隆 盛 自 身 の 生 涯 を 凝 縮 し て い る。 自 ら 命 を 賭 け て 維 新 を 成 し 遂 げ、 名 誉 や 官 位 を 求 め ず、 1877 年 西 南 戦 争 で「敗 れ る と 分 か っ て い な が ら」 弟 子 た ち と 共 に 戦 い、 城 山 で 自 刃 し た 西 郷。

「命 も い ら ず…」 と い う 言 葉 は、 西 郷 自 身 の 人 生 そ の も の の 描 写 で あ っ た。


5. 「敬 天 愛 人」 ─ 西 郷 の 座 右 銘

西 郷 の も う 一 つ の 有 名 な 言 葉 が、 「敬 天 愛 人 (け い て ん あ い じ ん、 天 を 敬 い、 人 を 愛 す)」 で あ る。

西 郷 は こ の 四 文 字 を 多 く の 揮 毫 (き ご う、 書) に 残 し て お り、 後 世「西 郷 を 表 す 言 葉」 と し て 知 ら れ る。

天 を 敬 う ─ 自 然 と 宇 宙 の 摂 理 に 従 う。 人 を 愛 す ─ 敵 で あ っ て も、 武 士 と し て 立 派 で あ れ ば 敬 う。 こ の 二 つ を 自 ら の 行 動 原 理 と し た。


6. 結 び

『南 洲 翁 遺 訓』 は、 41 か 条 の 短 い メ モ に 過 ぎ な い。 し か し そ の 中 に、 幕 末 か ら 明 治 へ の 革 命 を 駆 け 抜 け た 一 人 の 男 の 思 想 が、 凝 縮 さ れ て い る。

「命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人」 と は 誰 の こ と か。 そ れ は、 こ の 教 え を 残 し た 西 郷 自 身 の こ と で あ り、 そ し て 同 時 に、 こ の 教 え を 読 ん で 自 ら そ う 生 き よ う と し た、 多 く の 後 世 の 人 々 の こ と で も あ る。

中 学 ・ 高 校 で「命 も い ら ず、 名 も い ら ず」 の 一 句 を 学 ぶ 君 が、 こ の 言 葉 を 自 分 の 心 の 中 で 反 芻 し て み る と き、 1869 年 の 鹿 児 島 で、 西 郷 と 向 か い 合 っ た 庄 内 藩 士 と 同 じ 体 験 を、 君 は し て い る の だ。

語句の意味

各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について

  • 西 郷 隆 盛 (さ い ご う た か も り) K 1828-1877。 薩 摩 藩 (現 鹿 児 島 県) 出 身 の 武 士・政 治 家。 通 称 吉 之 助、 号 南 洲 (な ん し ゅ う)。 木 戸 孝 允・大 久 保 利 通 と 並 ぶ 「維 新 の 三 傑」。 戊 辰 戦 争 で 江 戸 城 無 血 開 城 を 実 現、 明 治 新 政 府 の 参 議・陸 軍 大 将 と な る。 し か し 1873 年 征 韓 論 で 敗 れ て 下 野 し 鹿 児 島 へ。 1877 年 西 南 戦 争 で 西 郷 軍 を 率 い、 9 月 24 日 城 山 で 自 刃。 享 年 49 歳。
  • 『南 洲 翁 遺 訓』 (な ん し ゅ う お う い く ん) K 1890 年 (明 治 23 年)、 旧 庄 内 藩 士 (赤 沢 経 言・三 矢 藤 太 郎 等) が 編 纂・出 版。 全 41 か 条。 戊 辰 戦 争 後 1869 年 頃 か ら、 庄 内 藩 士 数 名 が 鹿 児 島 や 東 京 で 西 郷 を 訪 ね、 そ の 教 え を メ モ し て い た も の を、 西 郷 没 後 13 年 を 経 て 公 表。 西 郷 の 政 治 思 想・倫 理 観 を 直 接 知 る 第 一 級 史 料 と し て 重 視 さ れ る。
  • 庄 内 藩 と 西 郷 の 寛 大 な 処 遇 K 庄 内 藩 (現 山 形 県 鶴 岡 市・酒 田 市 を 中 心) は 戊 辰 戦 争 で 奥 羽 越 列 藩 同 盟 に 加 わ り 新 政 府 軍 と 戦 っ た。 1868 年 庄 内 藩 が 降 伏 し た 際、 西 郷 は 「敵 で あ っ た が 武 士 と し て の 振 る 舞 い は 立 派 で あ っ た」 と し て、 領 地 没 収 や 重 い 処 罰 を せ ず 寛 大 に 処 遇。 こ れ に 感 動 し た 庄 内 藩 士 数 名 が、 後 に 鹿 児 島・東 京 で 西 郷 を 訪 ね て 教 え を 聞 き、 そ の メ モ が『南 洲 翁 遺 訓』 と な っ た。 「敵 か ら 弟 子 を 得 た」 と い う 不 思 議 な 縁。
  • 第 30 条 「命 も い ら ず…」 K 『南 洲 翁 遺 訓』 中 最 も 有 名 な 一 句。 全 文:「命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人 は、 始 末 に 困 る も の な り。 然 し 斯 (か) か る 人 で な け れ ば、 艱 難 (か ん な ん) を 共 に し て 国 家 の 大 業 は 成 し 得 ら れ ぬ な り」。 ─ 「命・名 誉・地 位・金 銭 ─ ど れ も 欲 し が ら ぬ 人 は、 一 般 に は 扱 い に 困 る 人 で あ る。 し か し、 そ う い う 人 で な け れ ば、 困 難 を 共 に し て 国 の 大 仕 事 は 成 し 遂 げ ら れ な い」。
  • 「敬 天 愛 人」 (け い て ん あ い じ ん) K 西 郷 の 座 右 銘。 「天 を 敬 い、 人 を 愛 す」。 中 国 古 典 を 西 郷 が 自 ら の 思 想 と し て 凝 縮 し た 言 葉 で あ り、 多 く の 揮 毫 (き ご う、 = 書) を 残 し て い る。 1899 年 上 野 公 園 に 立 て ら れ た 西 郷 隆 盛 銅 像 (高 村 光 雲 作) と 並 ぶ「西 郷 を 表 す 言 葉」。
  • 1873 年 征 韓 論 と 西 郷 の 下 野 K 1873 年 (明 治 6 年)、 朝 鮮 の 開 国 を 巡 る 政 府 内 対 立 で、 「西 郷 自 ら 朝 鮮 に 渡 っ て 開 国 を 説 得 す る (失 敗 す れ ば 戦 う)」 と い う 西 郷 の 提 案 が、 大 久 保 利 通・岩 倉 具 視 ら に よ っ て 否 決。 西 郷 は 抗 議 と し て 参 議 を 辞 任 し、 多 く の 薩 摩 出 身 武 官 と 共 に 鹿 児 島 へ 帰 郷。 こ れ が 4 年 後 の 西 南 戦 争 (1877) の 火 種 と な っ た。
  • 1877 年 西 南 戦 争 と 城 山 自 刃 K 1877 年 1 月、 鹿 児 島 の 私 学 校 党 を 中 心 と す る 不 平 士 族 が 蜂 起、 西 郷 を 担 い で 政 府 軍 と 戦 う。 西 郷 軍 約 3 万 人 が 熊 本 城 を 包 囲 す る も、 政 府 軍 に 押 し 戻 さ れ、 半 年 後 鹿 児 島 城 山 に 追 い 詰 め ら れ る。 1877 年 9 月 24 日、 西 郷 は 城 山 で 自 刃。 享 年 49 歳。 「最 後 の 武 士 の 死」 と し て 後 世 に 強 い 印 象 を 残 し た。

考えてみよう

  1. 第 30 条「命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人」 と い う 西 郷 の 言 葉 を、 自 分 の 言 葉 で 解 釈 し て み ま し ょ う。 こ う い う 人 は 本 当 に「始 末 に 困 る」 で し ょ う か?
  2. 敵 で あ っ た 庄 内 藩 を 寛 大 に 処 遇 し た 西 郷 と、 そ れ に 感 動 し て 弟 子 と な っ た 庄 内 藩 士 の 関 係 か ら、 「敵 と 味 方」「処 罰 と 寛 容」 に つ い て 考 え て み ま し ょ う。
  3. 西 郷 の 座 右 銘「敬 天 愛 人」 (天 を 敬 い、 人 を 愛 す) と、 第 30 条「命 も い ら ず…」 の 関 係 を 考 え て み ま し ょ う。

指導要領との対応

このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」道徳 第1学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。

  • 中学道徳 — よ り よ く 生 き る た め に 自 己 を 確 立 す る / 公 平・公 正

※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。

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出典・ライセンス

  • 原文: 西郷隆盛 (さいごう たかもり) / 編 庄内藩士「西 郷 隆 盛『南 洲 翁 遺 訓』 ─ 命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人」(1890年)
  • 入力テキスト: 庄内藩士編『南洲翁遺訓』 (1890) / 試訳・解説 (本サイト編集部) (底本:1890 年 (明 治 23 年)、 旧 庄 内 藩 士 が 編 纂・出 版 し た『南 洲 翁 遺 訓』。 西 郷 隆 盛 (1828-1877) が 戊 辰 戦 争 後、 敵 で あ っ た 庄 内 藩 (現 山 形 県) を 寛 大 に 処 遇 し た 縁 か ら、 庄 内 藩 士 数 名 が 西 郷 を 訪 ね て 教 え を 聞 き、 そ の メ モ を 西 郷 没 後 に 41 か 条 と し て ま と め た。 「命 も い ら ず、 名 も い ら ず、 官 位 も 金 も い ら ぬ 人 は、 始 末 に 困 る も の な り」 の 第 30 条 が 最 も 有 名。)
  • 原文の権利: パブリックドメイン
  • 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors